BG 2.12 — サンキヤ ヨガ
BG 2.12📚 Go to Chapter 2
त्वेवाहंजातुनासंत्वंनेमेजनाधिपाः|चैवभविष्यामःसर्वेवयमतःपरम्||२-१२||
な とゔぇえゔぁあはん じゃあとぅ なあさん な とゔぁん ねえめえ じゃなあでぃぱあは | な ちゃいゔぁ な ばゔぃしゅやあまは さるゔぇえ ゔぁやまたは ぱらむ ||2ー12||
न: not | त्वेवाहं: indeed also | जातु: at any time | नासं: not | न: not | त्वं: thou | नेमे: not | जनाधिपाः: rulers of men | न: not | चैव: and | न: not | भविष्यामः: shall be | सर्वे: all | वयमतः: we | परम्: after
GitaCentral 日本語
実に、私がかつて存在しなかったことはなく、あなたも、これらの人間の統治者たちも存在しなかったことはない。そして今後、私たちすべてが存在しなくなることも決してない。
🙋 日本語 Commentary
【言葉の意味】 न (na) - ではない、तु (tu) - 実に、एव (eva) - もまた、अहम् (aham) - 私、जातु (jātu) - いかなる時も、न (na) - ではない、आसम् (āsam) - 存在した、न (na) - ではない、त्वम् (tvam) - あなた、न (na) - ではない、इमे (ime) - これらの、जनाधिपाः (janādhipāḥ) - 人々の支配者たち、न (na) - ではない、च (ca) - そして、एव (eva) - もまた、न (na) - ではない、भविष्यामः (bhaviṣyāmaḥ) - 存在することになる、सर्वे (sarve) - すべての、वयम् (vayam) - 私たち、अतः (ataḥ) - この時から、परम् (param) - 後に。 【解説】 クリシュナ神はここで、魂の不滅性と、アートマン(真我)の朽ちることのない性質について語っておられます。魂は過去、現在、未来という三つの時間すべてを通して存在し続けます。人間は肉体の死後も存在し続けるのです。死の先にも命は続いています。
English
Swami Gambirananda
Swami Adidevananda
Hindi
Swami Ramsukhdas
Sanskrit
Sri Ramanuja
Sri Madhavacharya
Sri Anandgiri
Sri Jayatirtha
Sri Abhinav Gupta
Sri Madhusudan Saraswati
Sri Sridhara Swami
Sri Dhanpati
Vedantadeshikacharya Venkatanatha
Sri Purushottamji
Sri Neelkanth
Sri Vallabhacharya
Detailed Commentary
**第2章12節:** 我れ、汝、及びこれらの諸王は、かつて存在せざりし時は無く、未来においても決して存在を止むること無からん。 **注釈:** [この世には、二つの実体のみ存在する――具現化された真我(サット、永遠なるもの)と身体(アサット、非永遠なるもの)である。両者ともに悲しむに値せず、すなわち、悲しみは具現化された真我(身体に宿る住人)に対しても、身体そのものに対してもあり得ない。その理由は、具現化された真我は決して非存在となることがなく、身体は決して永続することがないからである。前節で両者に用いられた「悲しむに値せず」(アショーチャーン)という語が、ここでは真我の永遠性と身体の無常性という観点から説明されている。] 「かつて存在せざりし時は無く…これらの諸王も」――世俗的な観点から見れば、私がこの化身(クリシュナとして)を顕現するまでは、私はこの姿で全ての者の前に可視的に存在していなかった。汝が生まれるまでは、汝はこの姿(アルジュナとして)で全ての者の前に可視的に存在していなかった。そしてこれらの諸王が生まれるまでは、彼らもまたこの姿(王たちとして)で全ての者の前に可視的に存在していなかった。しかし、私も、汝も、これらの諸王も、これらの姿で顕現する以前に存在していなかった、というわけではない。 ここで、単に「私も、汝も、これらの諸王も以前から存在していた」と述べるだけでも十分であった。しかし、そのようには述べず、むしろ「我々が以前存在していなかった、というわけではない」と説かれている。その理由は、「我々が存在していなかった、というわけではない」と説くことによって、「我々は確かに存在していた」という真理が堅固に確立されるからである。その含意は、永遠の原理は常に永遠である、ということである。それは決して非存在であったことはない。「かつて」(ジャートゥ)という語は、過去、未来、現在のいずれの時においても、またいかなる場所、状況、条件、出来事、対象においても、永遠の原理には微塵たりとも不在であったことはあり得ない、ということを意味している。 ここで、「我」(アハム)という語を用いることによって、主は注目すべき点を述べておられる。後に第4章5節で、主はアルジュナに「我と汝の多くの生は過ぎ去りたり。我はそれら全てを知るが、汝は知らざるなり」と告げられる。こうして、ご自身の神性を明かすことにより、主は個々の魂(ジーヴァ)からご自身を区別される。しかしここでは、主は魂との一体性を宣言されている。その含意は、あちら(4.5)では主の意図はご自身の偉大さと特殊性を明らかにすることにあるが、こちらでは、主の意図は絶対真理の立場から永遠の原理を知らしめることにある、ということである。 「未来においても決して存在を止むること無からん」――未来において、これらの身体的状態は留まることがなく、いつの日かこれらの身体もまた留まることはない。しかし、そのような状態においてさえ、我々が存在を止む、というわけではない――すなわち、我々は確かに存在し続けるのである。その理由は、永遠の原理は過去においても非存在であったことはなく、未来においても非存在となることはないからである。 このように、主は過去と未来について説かれたが、現在については説かれていない。その理由は、身体的観点から見れば、「我々は皆、現在において直接知覚可能である。これについて疑いはない。それゆえ、『我々が現在存在していない、というわけではない』と言う必要はない」からである。もし絶対真理の立場から見るならば、我々は皆現在において存在しており、これらの身体は刹那ごとに変化している――したがって、身体からの離脱(ヴァイラーギャ)の体験は、我々によって現在そのものにおいて実現されるべきである。その意味は、過去と未来において我々の存在の不在がないのと同様に、現在においても我々の存在の不在はない――このことを悟るべきである、ということである。 あらゆる存在者が、眠りから覚める前にも「我はあり」という体験を持ち、覚めた後にも持つように、眠りの状態の間も、我々はまさにそのままであった。ただ外的な認識手段が不在であっただけで、我々自身の存在が不在であったわけではない。同様に、私、汝、諸王の身体――我々全ての身体――は以前には存在せず、今後も存在しないであろう。そして今この瞬間でさえ、身体は破壊へと向かって刹那ごとに動いている。しかし、我々の存在は以前にも存在し、今後も留まり、今この瞬間もまさに同じなのである。 我々の存在は時間を超越した原理(カーラーテータ・タットヴァ)である。なぜなら、我々はその時間(過去、未来、現在)さえも知る知者(ジニャーター)であるからである――三時の全てが我々の知の内にある。この時間を超越した原理を説明するために、主はこの詩節を説かれたのである。 「私、汝、諸王が以前存在していなかった、というわけではない。また我々が今後存在しなくなる、というわけでもない」と説くことの特別な意味は、これらの身体が存在していなかった時でさえ、我々全ては存在していた。そしてこれらの身体が存在しなくなる時でも、我々は存在するであろう――すなわち、これらの身体の全ては滅びゆくものであり、我々全ては滅びないものである、ということである。これらの身体が以前には存在せず、今後も存在しないということは、身体の無常性を確立する。そして我々全てが以前にも存在し、今後も存在するということは、全ての者の本質(スヴァルーパ)の永遠性を確立する。この二点から、一つの原理が確立される:初めと終わりに存在するものは、中間にも存在する。そして初めと終わりに存在しないものは、中間にも存在しない、と。 初めと終わりに存在しないものが、どうして中間に存在しないと言えるのか、我々によって知覚されているではないか? その答えは、知覚される対象、およびそれを通して(すなわち、それによって)知覚の体験が起こる心(マナス)、理性(ブッディ)、感覚器官(インドリヤ)は、刹那ごとに変化しているからである。それらは一瞬たりとも安定していない。それでもなお、自らを知覚される対象と同一視する時、人は知覚者(見る者、ドラシュター)となる。知覚の手段(心・理性・感覚器官)と知覚されるもの(心・理性・感覚器官の対象)――これら全て――が一瞬たりとも安定していないのであれば、どうして知覚者が安定していると証明できようか? その意味は、「知覚者」という呼称は、知覚されるものと知覚行為との関係性によってのみ存在する、ということである。もし知覚されるものや知覚行為との関係がなければ、知覚者という呼称は存在しない。むしろ、その基盤(アシュラヤ)である永遠の原理のみが残るのである。その永遠の原理は、我々全ての発生(ウッパッティ)、維持(スティティ)、消滅(ナッシャ)の基盤であり、全ての現象(プラティヤヤ)を照らす照明者(プラカーシャカ)と呼ぶことができる。しかし、「基盤」や「照明者」といったこれらの名称もまた、支えられるもの(アシュリータ)と照らされるもの(プラカーシャ)との関係においてのみ存在する。支えられるものと照らされるものが存在しない時でさえ、その存在はまさにそのままで留まる。その真理原理(タットヴァ)へと視点を向けた者にとって、どうして悲しみがあり得ようか? すなわち、それは不可能である。この観点から、私も、汝も、諸王も、我々の本質においては、悲しむに値しないのである。