**3.42**
感官は(粗大な身体よりも)優れていると言われる。感官よりも優れているのは心であり、心よりもさらに優れているのは理性である。理性よりもさらに優れているものは(欲望)である。それ故、大臂の者よ、理性よりも優れているもの(欲望)を知り、自己によって自己を制し、この征服し難き欲望という形をした敵を討て。
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感官は身体あるいは感官対象よりも優れていると言われる。意味するところは、感官を通して対象は知られるが、対象を通して感官は知られない。感官は対象なくして存在し得るが、感官なくして対象の存在は確立され得ない。対象は感官を照らす力を持たず、むしろ感官が対象を照らす。感官は同一のままであるが、対象は変化し続ける。感官は遍在的であり、対象は被遍在的、すなわち対象は感官の範囲内に収まるが、感官は対象の範囲内には収まらない。対象と比べて、感官は微細である。それ故、対象と比べて、感官は優れており、より強力であり、照らす者であり、遍在的であり、微細である。
感官よりも優れているのは心である。感官は心を知らないが、心はすべての感官を知る。感官の中では、各感官は自らの対象のみを知り、他の感官の対象は知らない。例えば、耳は音のみを知り、触・形・味・香は知らない。皮膚は触のみを知り、音・形・味・香は知らない。目は形のみを知り、音・触・味・香は知らない。舌は味のみを知り、音・触・形・香は知らない。鼻は香のみを知り、音・触・形・味は知らない。しかし、心は五つの感官とその対象を知る。それ故、心は感官と比べて、優れており、より強力であり、照らす者であり、遍在的であり、微細である。
心よりもさらに優れているのは理性である。心は理性を知らないが、理性は心を知る。理性は心の状態――平静か動揺しているか、適切か不適切か等――を知る。また、感官が適切に機能しているか否かも知る。意味するところは、理性は心とその思考、および感官とその対象を知る。それ故、理性は、感官よりも優れている心よりもさらに(強力であり、照らす者であり、遍在的であり、微細であり)優れている。
しかし、理性よりもさらに優れているものは、彼(欲望)である。理性は道具であり、「私」は行為者である。道具は依存的であるが、行為者は独立的である。その「私」の中に、不活性な要素があり、そこに欲望は宿る。不活性な要素との同一化により、その欲望は意識的な自我の中にあるように見える。実在においては、欲望は「私」の中に宿る。なぜなら、享受を欲し、楽苦の経験者となるのは「私」だからである。経験者、経験、経験対象の三者には同質性(本質的一体性)がある。この同質性なくしては、経験者の中に対象へのいかなる欲望や引きつけもあり得ない。至高の照らす者(純粋意識)――それは経験者である状態を照らし、その光によって経験者、経験、経験対象の存在が確立される――の中には、欲望はない。
「私」に至るまでのすべてはプラクリティ(自然)の一部である。その「私」をも超えたものは、至上我の直接の部分であり、これらすべて――身体、感官、心、理性、「私」――の支持、基盤、原因、駆動者であり、優れており、より強力であり、照らす者であり、遍在的であり、微細である。ただ不活性な要素(プラクリティの)のみが楽苦へと変容する、すなわち楽苦の変容は不活性なものの中でのみ生じる。意識には変容はない。むしろ、意識は変容を知る者である。しかし、不活性なものとの同一化により、意識自体が楽苦の経験者となる、すなわち意識自体が幸福または悲哀となる。幸福と悲哀は不活性なものだけに属することはできない。意味するところは、「私」の中の不活性な要素と同一化することにより、意識もまた自らを「私は経験者である」と受け入れるのである。至上我を悟ることにより、享受への愛着は止滅する――「至上を見て、この愛着もまた止滅する」(ギーター2.59)。ここで、「この」という語は経験者となった「私」を指し、「至上」という語は、経験者である状態に無執着であるあの至上我を指す。彼を知ることにより、愛着、すなわち欲望は止滅する。理由は、欲望は幸福のためだけに生じ、本質自性は生得の幸福そのものの塊であるからである。それ故、至上我を悟ることにより、(合一から生じる幸福への願いである)欲望は永遠に、完全に滅びる。
要旨:粗大な身体は対象である。感官は外的な道具であり、心・理性は内的な道具である。感官は粗大な身体よりも優れており(より強力であり、照らす者であり、遍在的であり、微細であり)、理性は感官よりも優れている。理性よりもさらに優れているのは、行為者である「私」である。その「私」(行為者)の中に欲望、すなわち世俗的欲望は宿る。自己の存在(有ること)、すなわち自己の本質自性は、意識であり、不変であり、存在・意識・至福の性質である。それが不活性なもの(プラクリティより生じた身体)と同一化するとき、「私」が生起し、本質自性が行為者となる。こうして、行為者の中には一つの不活性な要素と一つの意識的な要素がある。主として、世界への引きつけは不活性な要素によるものであり、主として、至上我への引きつけは意識的な要素によるものである(注 p. 201)。意味するところは、その中で不活性な要素が優勢であるために、世俗的(世界に関する)欲望は残り、意識的な要素が優勢であるために、霊的(至上我に関する)欲望は残る。不活性な要素は滅びやすい。それ故、世俗的欲望は滅びやすい。意識的な要素は永遠である。それ故、霊的欲望は成就されるべきものである。こうして、世俗的欲望(渇愛)の止滅と、霊的欲望(世界からの解脱への願い、自己知識への探究心、神的愛への憧れ)の成就とがある。世俗的欲望は生じ得るが、持続し得ない。しかし、霊的欲望は抑圧され得るが、滅ぼされ得ない。理由は、世俗的欲望は非実在的であり、霊的欲望は実在的であるからである。それ故、求道者は世俗的欲望の成就を望むべきでもなく、霊的欲望の成就に絶望すべきでもない。
本質において、根源にはただ一つの欲望のみがある。それは自己の全体、至上我への欲望である。しかし、不活性なものとの結びつきにより、この欲望は二つに分かれ、人は、変化する不活性なもの(世界)を通して自己の実在的欲望を成就しようと、不活性な対象を欲し始める。これが彼の誤りである。理由は、世俗的欲望は他者の務め(パラ・ダルマ)であり、霊的欲望は自己の務め(スヴァ・ダルマ)であるからである。しかし、求道者の中には世俗的欲望と霊的欲望の両方が残っているため、葛藤が生じる。この葛藤により、礼拝、瞑想、聖なる交わりなどの時には、求道者の中に霊的欲望は目覚めているが、他の時には、彼の霊的欲望は抑圧され、世俗的(享受と蓄積のための)欲望が生起する。世俗的欲望が残る限り、求道者の中に霊的修練を実践するという堅固な決意は確固として留まり得ない。霊的欲望が目覚めなければ、求道者の進歩は起こらない。求道者が神を得るという唯一の堅固な目的を持つとき、この葛藤は滅び、ただ一つの霊的欲望のみが求道者の中で優勢となる。ただ一つの霊的欲望のみが優勢となって残るとき、求道者は容易に神を得る(ギーター5.3)。それ故、求道者が世俗的欲望と霊的欲望の間の葛藤を除去することは非常に必要である。
純粋な本質自性の中には、自動的に自己の全体、至上我への引きつけまたは傾向がある。それは愛と呼ばれる。それが世界との関係を受け入れるとき、その愛は抑圧され、欲望が生起する。欲望が残る限り、愛は目覚めない。愛が目覚めない限り、欲望は完全には滅びない。不活性な要素が優勢であるために、世俗的享受への欲望(欲望)はその中に宿る。意識的な要素が優勢であるために、至上我への欲望もまたその中に宿る。それ故、実在において、欲望は不活性な要素の中にのみ宿る。しかし、それもまたただ意識との結びつきによるものである。意識との結びつきが断たれるやいなや、欲望は滅びる。意味するところは、意識が自らを通して不活性なものとの関係を断つやいなや、意識と不活性なものとの同一化である「私」は滅び、「私」の滅びとともに欲望は滅びる。
欲望が「私」の不活性な要素の中に宿るという強い論拠はこれである:これら三者――見られるものとして現れる世界、それを見る感官、理性、および見る者自身、経験者――の間の本質的(要素的)一体性なくしては、経験者から経験対象へのいかなる引きつけもあり得ない。理由は、引きつけは同質性の中でのみ起こり、異質性の中では起こらないからである。例えば、目は形へのみ引きつけられ、音へは引きつけられない。これはすべての感官に当てはまる。理性もまた、理解の対象(分別と反省)へのみ引きつけられ、音などの対象へは(もしそうなら、それは感官を伴ってのみである)。同様に、自我は至上我と本質的一体性を持つ。それ故、自我は至上我への引きつけを持つ。この本質的一体性は、不活性な要素を完全に捨てること、すなわち不活性なものとの仮定された関係を完全に断つことによってのみ経験される。それを経験することにより、愛は目覚める。愛の中には、不活性さ(非実在性)の痕跡さえも残らない。すなわち、不活性さの絶対的欠如がある。
プラクリティの作用の極めて微細な部分、因果体(マハット・タットヴァ、宇宙理性)は、「私」の不活性な要素である。欲望はこの因果体の中にのみ宿る。因果体との同一化により、欲望は自我の中にあるように見える。同一化の止滅により、人は自己の純粋な本質自性を経験する。その中には欲望の痕跡さえもない。本質自性を経験することにより、欲望は完全に根絶される。
かくして、理性よりも優れているものを知れ。最初に、感官は身体よりも優れ、心は感官よりも優れ、理性は心よりも優れ、欲望は理性よりも優れていると述べられた。今、上記の段階において理性よりも優れているものを知れと言う意図は、この欲望が「私」の中に宿るということである。自己の実在的本質自性の中には欲望はない。もし欲望が本質自性の中にあるなら、それは決して滅びないであろう。欲望は滅びやすい不活性なものと同一化することによってのみ生じる。同一化の中でも、欲望は不活性なものの中にのみ宿るが、それは本質自性の中にあるように見える。それ故、理性を超えて宿るこの欲望を知り、それを滅ぼすべきである。
自己によって自己を制せよ。理性を超えて「私」の中に宿る欲望を殺す手段は:自己によって自己を制すること、すなわち自己の純粋な本質自性または自己の全体、神とのみ関係を保つことである。それは実在的である。同じ考えが、第六章五節において「自己によって自己を高めよ」という言葉で、また六節において「自己によって自己を制する者によって」という言葉で表されている。
本質自性(自我)は至上我の直接の部分であり、身体、感官、心、理性は世界の部分である。本質自性がその全体である至上我から背を向け、プラクリティ(世界)に向かうとき、その中に欲望が生起する。欲望は欠如感から生じ、欠如感は世界との関係から生じる。なぜなら、世界は欠如の性質のみであるからである――「非実在には存在がない」(ギーター2.16)。世界との関係が断たれるやいなや、欲望は滅びる。なぜなら、本質自性の中には欠如がないからである――「実在には非存在がない」(ギーター2.16)。
至上我から背を向け、世界との関係を仮定した後でも、個我の実在的欲望(必要または飢え)は、その全体である至上我を得ることのみである。「私は常に生き続けたい、私はすべてを知りたい、私は永遠に幸福になりたい」という形で、それは実際には存在・意識・至福の性質である至上我のみを欲している。しかし、世界との関係を仮定するために、それは誤ってこれらの欲望を世界そのものを通して成就しようとする――これが欲望である。この欲望は決して成就され得ない。それ故、この欲望は滅ぼされねばならない。
世界と自らを結びつけた者は、それを断ち切ることもできる。それ故、主は、自らによって世界との関係を断ち切り、欲望を殺すことを命じられた。
自己によって自己を制することには、修練はない。なぜなら、修練は世界(身体、感官、心、理性)の助けを借りてのみ起こるからである。それ故、修練においては、世界との関係の助けを借りねばならない。実在において、自己の本質自性への確立または至上我の獲得は、世界の助けを借りて起こるのではなく、むしろ、世界の捨離(関係の断絶)によって自らを通して起こる。
要旨:意識が不活性なものとの関係を仮定するとき、その中には世界(享受)への欲望と至上我への欲望とがある。不活性なものとの関係を仮定することにより、個我に対して生じる誤りは、存在・意識・至福の性質である至上我への憧れという欲望を、世界そのものを通して成就しようとして、世俗的対象を欲し始めることである。その結果、これら両方の欲望は(自己知識なくして)決して止滅しない。
世界を知るには、分離が必要である。至上我を知るには、至上我との一体性が必要である。なぜなら、実在において、自我は世界とは異なり、至上我とは異ならないからである。しかし、世界を欲することにより、自我は世界との自己の非差異性または近接性を仮定するが、それは決して可能ではない。また、至上我を欲することにより、自我は至上我からの自己の差異性または距離(背き)を仮定するが、これも可能性はない。しかし、世俗的欲望を滅ぼすためには、霊的欲望を持つことが非常に有益である。もし霊的欲望が強烈になれば、世俗的欲望は自動的に止滅する。世俗的欲望が完全に止滅することにより、霊的欲望は成就される。すなわち、常に得られている至上我が経験される(注 p. 203.1)。理由は、実在において、神は常に、かつ遍く臨在しているが、世俗的欲望の存在のために、彼は経験されないからである。
征服し難き欲望という形をした敵を討て、大臂の者よ。「大臂」とは、大きく強い腕を持つ者、すなわち英雄を意味する。アルジュナを「大臂」、すなわち英雄と呼ぶことにより、主は、あなたは欲望という形をしたこの敵を制する能力があることを示している。
世界との関係を保ちながら、欲望を滅ぼすことは非常に困難である。この欲望は、偉大な者たちの分別さえも覆い、彼らを義務から逸らせ、没落を引き起こす。それ故、主はそれを征服し難き敵と呼んだ。
欲望を征服し難き敵と呼ぶ意図は、それについてより注意深くなるためであり、それを征服不能と考えて落胆するためではない。
いかなる一つの欲望の生起、成就、不成就、止滅も起こる。それ故、単なる欲望は生起と滅びの対象である。しかし、自我は連続して存在し、欲望の生起と滅びを知る。それ故、それは容易に欲望との関係を断つことができる。なぜなら、実在において関係はないからである。それ故、求道者は決して欲望を恐れるべきではない。もし求道者が自己の福利に対する堅固な目的を持つなら(注 p. 203.2)、彼は容易に欲望を殺すことができる。
欲望の捨離または神の獲得において、すべての者は独立的に資格があり、適格であり、能力がある。しかし、欲望の成就においては、いかなる者も独立的に資格がなく、適格でなく、能力がない。理由は、欲望は決して成就されないからである。神は人間の身体を、ただ彼の獲得のためにのみ与えられた。それ故、欲望を捨離することは困難ではない。それは、世俗的享受対象に重要性を与えるためにのみ、困難に思われるのである。
幸福(好ましい条件)への欲望を根絶するために、主は時折、悲哀(好ましくない条件)を送られる。それは人が幸福を欲さないようにするためである。もしあなたが欲するなら、あなたは悲哀を得ねばならないであろう。世俗的対象を欲する者は、決して悲哀から逃れることはできない――これが法則である。なぜなら、接触から生じる享受は、まさに悲哀の原因であるからである(ギーター5.22)。
自我(本質自性)の中には無限の強さがある。その存在と強さを得ることによって、理性、心、感官は存在し、強くなる。しかし、不活性なものとの関係を結びつけることにより、それは自己の強さを忘れ、自らを理性、心、感官に従属していると考える。それ故、欲望という形をした敵を殺すためには、自己を知り、自己の強さを認めることが非常に必要である。
欲望は不活性なものとの関係によって起こり、不活性なものの中にのみある。同一化により、それは自我の中にあるように見える。もし不活性なものとの関係がなければ、欲望は全くない。それ故、ここで欲望を殺すという意図は、実際には欲望の完全な欠如を示すことである。これに反して、もし人が欲望、すなわち渇愛の存在を受け入れ、それを滅ぼそうと試みるなら、欲望の滅びは困難である。理由は、実在において、欲望は独立的な存在を持たないからである。欲望は生じる。そして、生じるものは滅びる――これが法則である。もし人がこの欲望を抱かなければ、以前の欲望は自動的に滅びるであろう。それ故、欲望を滅ぼすという意味は:新しい欲望を抱かないことである。
身体などの世俗的対象を「私」「私のもの」「私のために」と考えることによってのみ、人は自己の中に欠如感を経験する。しかし、人は誤ってその欠如もまた世俗的対象を通して成就しようとする。それ故、彼はそれらの対象を欲する。しかし、実在において、今日に至るまで、いかなる者の欠如も世俗的対象によって成就されたことはなく、また成就され得ない。理由は、自我は不滅であり、対象は滅びやすいからである。自我は不滅であるにもかかわらず、滅びやすいものを欲することによって、何の利益も得られず、また何の損失も残らない。
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