**3.40** 諸感覚器官(インドリヤ)、心(マナス)、理性(ブッディ)は、この欲望の住処(すみか)と言われる。これら(感覚器官、心、理性)を通して、欲望は知識を覆い隠し、身体と同一視する者(デーヒン)を迷わすのである。
**解説:** 「インドリヤーニ・マノ・ブッディル・アスヤーディシュターナム・ウチャテ」――欲望は五つの場所に見出される:(一)対象物の中に(ギーター3.34)、(二)諸感覚器官の中に、(三)心の中に、(四)理性の中に、(五)想定された「私」(エゴ)、すなわち行為者の中に(ギーター2.51)。これら五つの場所に現れるけれども、欲望は真には想定された「私」(意識と物質の結び目)の中にのみ住まう。しかしながら、前述の五つの場所に現れるゆえに、それらはこの欲望の住処と呼ばれるのである。
一切の行為は、ただ身体、感覚器官、心、理性によってのみ行われる。この四つは行為を為すための道具である。もし欲望がそれらの中に住まうならば、行為が至高の善(パラマールタ)のために為されることを許さない。それゆえ、カルマ・ヨーギーは、欲望なく、我がものという感覚なく、執着なく、心の浄化のために(ギーター5.11)、身体、感覚器官、心、理性を通して行為を行うのである。
実のところ、欲望はただエゴ(意識的な自己と不活性な物質との同一視)の中にのみ住まう。エゴ、すなわち「私性」は、単なる想定に過ぎない。私がかくかくのカースト、生活期(アーシュラマ)、伝統に属するというのは、単なる信念に過ぎない。信念以外に、これの他の証明はない。この想定された関係性の中に、欲望は住まうのである。欲望からこそ、一切の罪が生じる。罪はその結果に苦しむことによって滅びるが、エゴから欲望が除去されない限り、新たな罪は生じ続ける。それゆえ、欲望こそが魂を縛るものである。マハーバーラタは述べる:「欲望こそが束縛である。ここに他の束縛はない。欲望の束縛から解き放たれた者は、ブラフマンの境地に達するにふさわしき者となる。」(シャーンティ・パルヴァ251.7)
「エタイル・ヴィモーハヤティ・エーシャ・ジュニャーナム・アーヴリティヤ・デーヒナム」――欲望によって、人は為すべきことを為さず、為すべからざることを為す。このようにして、欲望は身体と同一視する者を迷わすのである。
第二章において、主は、欲望から怒りが生じると述べられた――「カーマート・クロード・アビジャーヤテ」(2.62)――そして怒りから迷妄(極度の蒙昧)が生じると――「クロダード・バヴァティ・サンモーハ」(2.63)。これより、欲望が妨げられた時には怒りが生じるが、もし欲望が妨げられないならば、欲望から貪欲が生じ、貪欲から迷妄が生じることを理解すべきである(注釈 p. 197.1)。要するに、もし望む対象が得られなければ「怒り」が生じ、もし対象が得られれば「貪欲」が生じる。それらから、「迷妄」が生じるのである。欲望は激情の性質(ラジャス・グナ)の活動であり、迷妄は無知の性質(タマス・グナ)の活動である。激情と無知の性質は互いに近くに住まう(注釈 p. 197.2)。それゆえ、欲望、怒り、貪欲、迷妄は互いに非常に近くに住まうのである。欲望は、感覚器官、心、理性を通して、身体と同一視する者を迷わす(蒙昧にする)。このように、欲望は激情の性質の活動であるけれども、結果として無知の性質の活動である迷妄をもたらすのである。
欲望が生じる時、人はまず感覚器官を通して享受しようと欲する。最初は、享受の対象は得られず、たとえ得られたとしても永続しない。それゆえ、何とかしてそれらを得ようと、人は心の中に様々な欲望を抱く。理性においては、それらを得るための様々な手段を考える。このようにして、欲望はまず、接触から生じる快楽の誘惑に感覚器官を従事させる。すると感覚器官は心をそれらへと引き寄せ、その後、感覚器官と心が共に理性をもそれらへと引き寄せる。このようにして、欲望は知識を覆い隠し、感覚器官、心、理性を通して身体と同一視する者を迷わし、彼を堕落の穴へと投げ落とすのである。
もし召使いが善良であっても、主人が軽蔑して彼を解雇するならば、再び善良な召使いを得ることはできない、という原則がある。同様に、もし主人が善良であっても、召使いが軽蔑して扱うならば、再び善良な主人を得ることはできない。同じように、もし人が、神に達することなく、人間の身体を単に世俗的な享受と所有に浪費するならば、再び人間の身体を得ることはないであろう。善良なものは心の不純さゆえに軽蔑され、心は欲望ゆえに不純となる。それゆえ、何よりもまず、欲望は滅ぼされねばならない。
「デーヒナム・ヴィモーハヤティ」という言葉の意味は、この欲望は身体と同一視する者のみを迷わすということである。身体を「私」「我がもの」と考える者のみが、身体と同一視する者である。教えのまさに初めに、主は身体(デーハ)と身体に住む者(デーヒー――魂)との区別を説かれた(ギーター2.11-30)。身体と身体に住む者が別々であるということは、誰もが経験することである。この欲望は、知識を覆い隠し、身体と同一視する者(身体との関係を信じる者)を縛るのであって、身体に住む者(純粋な真我)を縛るのではない。身体との関係を信じない者を縛ることはできない。ただ身体を「私」「我がもの」「私のために」と考えることによってのみ、人は滅びゆく不活性な対象に重要性を与える。これから、不活性なるものへの執着が彼の中に生じる。執着が生じる時、不活性なるものとの関係が形成される。不活性なるものとの関係が形成された時にのみ、欲望は生まれる。欲望が生まれる時、魂は迷わされ、世の束縛の中に縛られるのである。
**連絡:** さて、続く三つの詩節において、主は欲望を殺す方法を説き、その滅却を命じられる。
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